『ナイン・ストーリーズ』
- 2008/08/25(月) 01:38:32
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元来、自分は短編集というものが苦手だ。
海外のものは特にその傾向が強い。どうも話が残らない。物語の区切りごとに嫌気が指してくる。新たな題名、新たな人物、新たな展開・・・その目まぐるしさに馴染めない。
短編集は不味い音楽のアルバムのように、良い出来ものと悪い出来のものが玉石混交である。少なくとも今まではそう思いながら過ごしてきた。
しかし、前回のエントリーの『翻訳夜話』でサリンジャーに興味をもち、この『ナイン・ストーリーズ』を買ってみた(ちょうど古本屋で100円で売られていたのも多少関係している)。
正直なところ、サリンジャーという作家は現在では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ばかりが着目されているし、それのみの一発屋という印象があり、面白いかどうかは半信半疑で読み始めた。
収録されている短編は以下の9つ。
・バナナフィッシュにうってつけの日
・コネティカットのひょこひょこおじさん
・対エスキモー戦争の前夜
・笑い男
・小舟のほとりで
・エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
・ 愛らしき口もと目は緑
・ド・ドーミエ=スミスの青の時代
・テディ
2つ目の「コネティカット・・・」あたりだろうか。この短編集全体に只者ならぬ空気を感じ始めたのは。
この短編はエロイーズという女性が戦死(といっても名ばかりの戦死)によって失った恋人を、親友との会話の中で想起する話である。
彼女は今別の男と結婚しており(しかしうまくいっていないのだが)、一人の娘もいる。この娘ラモーナは、まだ幼いのだが、自分の想像上の架空の恋人を持つという少し奇妙な設定で、それは一途ではなく代替可能なもののようになっている。
そして、「コネティカット〜」では何かが現実に起きるのではなく、全てが事後、エロイーズと親友のメアリ・ジェーン(またはラモーナ)の間で語られるのみである。
しかし、なぜだろう。なぜこの短編はこれほどまでに胸を打つのだろうか。おそらく、何気ない会話、挙動の一つ一つから、若き日に恋人を失ったエロイーズの悲しみが直に伝わってくるためなのだろう。
以下、ラストシーン引用。
エロイーズはメアリ・ジェーンの腕をゆすりながら「あたし、いい子だったよね?」訴えるように彼女は言った。「ねえ、そうだろ?」――p64
ここだけを抜粋しても伝わらないと思うが、物語の流れで終局にこのような行動を取るエロイーズの悲しみは計り知れないものがある。なぜ、なぜこうなってしまったのだろう?
この他にもコミカルなものからエモーショナルなものまで、バラエティに富む物語が展開されている。
特に「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」などは本当に上手い。
よくよく考えればありがちな(とまではいかないまでもある程度パターン化されているような)手法といえるものなのだが、やられた。
ラストの一文は今読み返しても鳥肌が立つ。ネタバレになってしまうので、引用はしませんが。
書評というよりもただの感想文になってしまいましたが、この『ナイン・ストーリーズ』は深読みや解釈を施すよりも、それぞれの物語自体を楽しむ方が読みかたとして正解だと思います。
はっきり言ってしまうと、自分は『キャッチャー〜』を読んでそれほど感銘を受けなかった部類なのですが、今作でサリンジャーへの評価は格段に上がりましたね。他の作品もぜひ読もうと思います。
何かを失った、あるいは失いかけている人々。彼らの悲しく、儚い九つの物語。
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『翻訳夜話』/『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』
- 2008/08/24(日) 22:10:29
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「バックドロップキックス」の木行ハジメから借りました。
この間、二人で読書会を行った際に何冊かの本を交換し合ったので、これからしばらくはお互いのブログ間で奇妙なキャッチボールが続きそうです。
さて、今回紹介するこの翻訳夜話シリーズは、作家であり翻訳家でもある村上春樹氏と、学者で翻訳家である柴田元幸氏の二人が、翻訳や英米の作家などについてあーだこーだ語り尽くす本となっております。
無印の夜話の方では柴田氏の翻訳の授業の生徒や若い翻訳家の面々を交えた対話を行っているので、話が様々な方向に飛んで、翻訳について非常に多面的に(しかし学術的すぎない程度の)討議がなされています。また、両者がそれぞれ、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編を実際に翻訳し、訳者による翻訳の違いを読者に肌をもって感じさせてくれるサービス付きです(しかも巻末には原文まで!)。
それに対して2の方は副題に「サリンジャー戦記」とあるように、春樹さんがサリンジャーの名著『The Catcher in the Rye』を新たに翻訳した直後に書かれたものなので、焦点はこのサリンジャーという作家と『キャッチャー〜』に置かれています。こちらはさすがに『キャッチャー〜』を読んでいないと何の話かわからない内容ばかりなので、「2」とあるものの、夜話の続編ではなくまったく別もの(というよりもほぼ『キャッチャー〜』の研究書)と考えた方がいいでしょう。
しかし、これを読んでまず思ったのが、春樹さんと柴田さんの圧倒的な読書量。
ここ100年間のアメリカで出版された小説を網羅しているかのように、ぽんぽんと作家の名前・作品名が出てきます。
その中でも、事あるごとに『グレート・ギャツビー』の話を持ってくる春樹さんからはフィッツジェラルドへの並々ならぬ愛を感じましたね笑
あとは、両氏の翻訳を比べてみると、小説の方で春樹さんの文体のリズムに慣れているせいか、柴田さんよりも春樹さんの訳の方がしっくりときました。他の本で柴田さんの翻訳も読んだことがあるのですが、やっぱりこれは理屈云々よりも嗜好の問題になるんでしょうね・・・。
ただ、今まで盲目的に海外文学を読み漁ってきた身として、海外の小説と読者の仲介者に当たる翻訳者の存在が思っていた以上に大きかったことを痛感しました。
また、春樹さんがよくいう「翻訳の賞味期限」というものも、最近の新訳ブームに繋がっているのでは?という話を木行ともしました。
そういった「訳者」という視点から海外文学を考えてみるのも面白い試みだと思います。
- 春樹
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『旅路の果て』
- 2008/08/17(日) 23:21:25
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ジョン・バースはアメリカのポストモダン文学作家で、本国ではピンチョンらと並ぶ重要な作家として認知されているようですが、ここ日本での知名度はイマイチなようです。
今作『旅路の果て』はバースの第二作目。
主人公ジェイコブ・ホーナーはとある精神的な理由から田舎町の大学に勤めることになり、そこでジョーとレニーのモーガン夫妻に出会う。
物語はこの三人の関係の変化と問題を中心におき、様々な哲学問答(ホーナーとジョー、もしくは生徒など)や主人公の病気(と呼べるものなのかは定かではないが)の独特の治療法が中心線に色を添える構成。
そして、夫であるジョー・モーガンは自身の打ち立てた規律に従って厳しく生きている人物であり、「自分がない(=存在しない?)」と言われる主人公と対照的な存在だといえる。
だが、その厳格さゆえに彼には友人が中々できなかった。
そんな折、文法教師のホーナーに何かを見出したジョーは、自分のみならず妻のレニーにもホーナーと対話することを求める。
しかし、三角関係というものは必ず崩壊してしまうのがセオリーであって、ここでも衝撃的としか言いようのないラストが待ち受けている・・・。
内容はこのようになっていますが、全体的にピンチョン作品の重さとは対照的に明るく、会話文の多さもあいまって読みやすい小説だといえます。
哲学的な対話や物語の後味の悪さが好きな人にはオススメです。
ちなみに、訳者の志村正雄さんはピンチョン作品の翻訳も行っているので、比較してみると面白いかもしれません。
今回は読了から少し時間が経ってしまったのでこのくらいで・・・。
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『裸のランチ』
- 2008/08/07(木) 12:23:34
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このタイトルは、まさに文字どおりのものを意味している。「裸の(むきだしの)ランチ」――自分のフォークの先に何があるかをみんなが直視する、あの凍り付いた一瞬。 (序文より)
ビートニクの最高傑作とも評されるバロウズの出世作。
だが、内容の全てを理解するのは不可能に近い。
何せ、これは麻薬中毒者たちの小説であると同時に、読者側にも麻薬中毒者であることを要求するような小説でもあるからだ。
本編は、まるで悪夢のようなグロテスクなイメージがいくつかの章に分かれて展開される。
そのイメージは、間違っても食事をしながら読んではいけないようなものばかりで、動物並あるいは動物以下としか言いようのない、人間たちの醜悪な姿がまざまざと描かれている。
それぞれのイメージ同士の繋がりは極めて薄く、ここでは物事の連続性が否定され、バロウズは過去と未来を断ち切った現在を最重要としている。
個々のイメージは麻薬、セックス、同性愛(特にホモ)、医療、政治などをキーとしているものが多く、それぞれを解体すれば、何らかの意味を見出すことが可能でもあるらしい。
しかし、これらを深く解釈するよりも、身をもって体験することを重視する方が、バロウズの意図に近い読み方であるのではないかと自分は思う。
作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ・・・・・・ 私は記録する器械だ・・・・・・――p302
そして、あとがきで訳者の鮎川さんが述べているように、『裸のランチ』は0か10に評価が分かれる小説でもあるのだろう。
イメージを理解することを目指して諦めてしまう人もいるだろうし、反対にそのイメージにひたすら酔いしれる人もいるかもしれない。
また、補遺では様々な麻薬とその中毒の治療法についての(発行当時の)詳しい解説が載っているが、この本を読んで麻薬をやってみたいなどと思う人間なんて一人もいないことは確かだと言える。
誰も、裸のランチなんて見たくも食べたくもないのだから・・・。
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『恐怖の兜』
- 2008/08/05(火) 22:14:06
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現代ロシア文学界を引っ張る新鋭作家、ヴィクトル・ペレーヴィンが「世界の神話」プロジェクトの一環で描いた現代版の「神話」。
本作は古代ギリシアのミノタウロスの伝説をベースに、ペレーヴィンがその特異な想像力を駆使して、まったく新しい物語を展開しています。
ミノタウロス伝説について詳しく知りたいという方はここをご参考に。
では、ひとまずあらすじ引用。
>「いったい、ここは、どこなんだ!?」彼らは孤独に、それぞれ目覚める。そこは小さな部屋、あるのはベッドとパソコンだけ。居場所を把握するため、仲間探しのチャットが始まる。呼びかけに応じたのは、男女八人―。どうやら自分たちが迷い込んだのは、「恐怖の兜」をかぶった巨人の世界らしい。その正体は、牛の頭をもつ怪物ミノタウロス。そう、つまりこの奇妙奇怪な世界は、ミノタウロスの迷宮なのだ。そして彼らは救出の時を待つ。ミノタウロスを退治した、英雄テセウスを。しかしその脱出劇には…驚愕の結末が。現代ロシア文壇に異彩を放つ寵児ペレーヴィン。驚異的な空想と論理をもって一気に描ききる、テセウスとミノタウロスの迷宮神話。
この通り、本編は最初から最後まで、チャット形式で男女八人が会話をしていく形になっています。
各人は同じような部屋にいるのですが、どの部屋にも何処かへ通じているドアがありながら、そこから外に出られる、特殊な部屋に入れる、または行き止まりしかない・・・というように各部屋の状況には多少の差異が生じています。
そして、登場する八名はもともと何者かの手によってハンドルネームが定められており、それぞれ以下のように名づけられています。
モンストラダムス
イゾルデ
ナッツクラッカー
オルガニズム(^o^)
サルトリスト
アリアドネ
ウグリ666
ロミオとコイーバ
見たことのあるような名前もちらほらありますが、そこはペレーヴィンなりのユーモアなのではないかと思います笑(特にオルガニズムの後ろの顔文字(^o^)
この中でキーとなるのは、上記の神話にも登場するミノタウロスの妹と同名の「アリアドネ」です。
もともと全員が参加するチャットを立ち上げたのも彼女ですし、彼女は「夢」の中でミノタウロス側(迷宮側?)の小人と会話をしたり、夢から重要なものを持ち帰ったりと物語を解く核となっていると言えます。
ただ、だからといって単純にアリアドネ=「アリアドネ」ではないとも一言添えておきます。
しかし、内容は難解というほかありません。
舞台設定自体が近未来のようで、「カブトラー」のような新しい概念が登場したり、時々なされる観念的な会話などは簡単に理解できるものではないですね・・・。
そして、表題とされている「恐怖の兜」そのものは最もわかりにくい。
その構成要素は「正面網」「今の格子」「迷宮分離機」「豊饒の角」「タルコフスキイの鏡」とこれもまたわけのわからないものばかりで、そこでは過去が上にあって未来が下にあり、「印象の流れ」が「正面網」に当たって何かが生じて過去と混ざり合って「希望の泡」となって未来の領域に流れて・・・と構造を理解するのはもう不可能な気がします・・・。
こういった部分は他の小説でも言えることですが、ある程度読み飛ばしても大丈夫かなと思います。
そして最後に、この物語全体を理解する上で重要となるのは、「ディスクール」という概念であると自分は思いました。
これは「ナッツクラッカー」のドアの向こうにあるテレビの中で、我こそはテセウスだと何名かが立候補するテレビ演説の中の立候補者の一人が言っていることで、「物事や考えを言葉で説明すること。またはその言葉、言説」(本編p207脚注)という意味らしいです。
そして、この物語がチャット形式で展開されていることは、つまり全員は「ディスクール」でもって繋がっていると言えるわけです。
彼らは自分の経験を語りますが、それは本当に経験しているのか、あるいは真実を語っているのかを他者が理解することはできません。
この物語内の世界が「ディスクール」で創られている以上、迷宮こそは実はこの「ディスクール」にほかならず、また「ディスクール」自体も一つの迷宮であるといえるのではないでしょうか。
だが、言説に対しては、それを疑ってしまっていてはキリがないと、本編でも「モンストラダムス」が言っております。
しかし、もし「ディスクール」の迷宮を抜け出すことができたらその先には何が待っているだろうか・・・。
まぁ、でもこれはあくまで自分の解釈にすぎず、物語の中では違った解釈がとられています。
それにしてもあのオチは想像できなかった・・・というか思いつきませんよ、我々では。
ネタバレをしてしまいそうなので、これにて・・・。
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