『1973年のピンボール』
- 2008/07/21(月) 01:44:49
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村上春樹の小説について、何かを語ることは難しい。
語るという行為によって、この小説のもつ力、人の感性へと直接訴えてくるような力が損なわれてしまう気がするからだ。
でもほら、見ての通り、村上春樹を読んだ後は村上春樹っぽい文体で何か書きたくなってしまうんですよ・・・。
それで自分の文を読み直して後悔する。以下繰り返し。・・・やれやれ。
この小説はピンボールについての物語である。
しかし、肝心のピンボールの話は後半になってやっと顔を出す。
それも、突然に。
今作のテーマはやはり、死、喪失、失われたもの(失われるもの)なのであろう。
物語は「僕」と「鼠」の二つの視点から展開されるが、両者はまったく別の物語であると同時に、どこか呼応している感がある。
今作が三部作の第二作に当たるのは周知の通りだが、処女作「風の歌を聴け」で描かれたこの二人の関係は、この作品によって次第に分岐していくのが分かる。
双子と暮らし、翻訳の仕事を行う「僕」の姿はどこか安定しているように見える。
「僕」は現状に対し、虚無感を覚えているが、苛立ちや焦燥は感じていない。
しかし、「僕」は過去に対する何らかの「思い」に囚われてもいる。
古い音楽、配電盤、そして3フリッパーのスペースシップ・・・
「僕」の物語は、過去の、過ぎ去ったものたちへの、過ぎ去っていくものたちへのやり場のない感情を表現しているように思う。
「鼠」の物語はどこか漠然としており、段々と具体化していくような構成になっている。
前半はある「女」に対する思いを中心に描かれている。「僕」の物語と比べると地の文が圧倒的に多いのが、二つの物語のトーンを切り分けている。
だが、「鼠」も「僕」と同じく、過去に対する思いを捨てきれない。
女との関係性の中で「鼠」は、海岸では少年時代、霊園では青年時代を回想する。
そして、行き着いた「いつも」のジェイズ・バーでは現在の自分を考えるようになる。
ビールを飲みすぎ、吐いてまで「鼠」は考える。
自分は何をすべきなのか、を。
答えは「別れ」であった。
生まれ育った街と、幾重もの時を過ごしたジェイズ・バーとの、「別れ」。
しかし、「僕」と「鼠」の帰結は何かが違っている。
そこには「意志」の内在の如何による決定的な差異が生じているのだ。
「僕」の別れ(配電盤・スペースシップ・双子)は全て受動的な別れであり、別れることに対して「僕」は何も決断していない。
彼はのちに「ダンス・ダンス・ダンス」で自分を一つの部屋――誰もが入り口から入り、出口から出て行くだけの空虚な部屋――であると感じるが、ここでもその比喩は正鵠を射ているだろう。
彼の周りでは、全てが彼の意思の介入を必要としないままに過ぎ去っていく。
あるいは、彼自身が「何も欲しがるまい」と生きている結果が、これだ、とも言えるだろうか。
「鼠」については、もうこれ以上言う必要もないだろう。
彼は今作で自発的に変わろうとしている。その結果は・・・続編の「羊をめぐる冒険」の通りであるが、それでも自分は後半になるにつれて人間らしくなっていく「鼠」が好きだ。
それと同時に、「僕」の物語から多くのものを感じる自分もいる。
おそらく、この二人の物語は、その奥底で深く親密に繋がっているのだろう。
- 春樹
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この記事に対するコメント
双子ktkr
『1973年のピンボール』は漠然と、面白かった、って印象しか残ってないなぁ。村上春樹の作品全般に言えることかもしれないけど、これは特に双子のインパクトが、ね。・・・やれやれ。
>木行
配電盤の修理にきた男に双子が「彼ってまるで獣よ」っていうシーンはいつ見ても笑っちゃうぜ。
でも、どうせ木行さんは『ダンス・ダンス・ダンス』の「ユキ」が一番お気に入りなんでしょ。・・・やれやれ。